





海の上で、夜を明かした ― ウィットサンデイ諸島の二泊
台湾人のウィリアムとの旅の途中だった。イニスフェイルのバナナファームで、一緒に汗を流した同僚だ。あの町からサーファーズパラダイスを目指す長い道のり、その途中に、あいつが出発前に予約してくれていたのが、このエアリービーチ発の船旅だった。相棒のスビー――俺の車――も、まだ何ごともなく元気に走っていた頃の話だ。
エアリービーチの港から、俺たちは「Mandrake」という帆船に乗り込んだ。乗り合わせたのは、アメリカ、フランス、イギリス、スイス、カナダ。世界中から集まった、名前も知らない観光客たち。言葉も国もばらばらな者同士が、同じ甲板の上で、同じ海を目指して出航した。船が風を切って進みはじめると、日差しは強いのに、頬に当たる風はどこか涼しい。潮の香りが、ずっと鼻先にあった。

そして、ヒル・インレットにたどり着く。この景色を、俺は旅行会社のパンフレットの中でしか見たことがなかった。真っ白な砂と、青から緑へ、緑から碧へと、名前をつけられないほど細やかに移ろっていく海。作り物みたいだと、どこかで思っていた。それが、いま、目の前にある。潮が引くたびに砂と水が混ざり合い、地図のような、生き物のような曲線を描いていく。人生で見たどの海よりも、綺麗だった。しばらくのあいだ、俺は言葉を忘れて、ただ突っ立っていた。

時間が経つごとに、その模様は少しずつ姿を変えていく。同じ景色は、二度と戻ってこない。いま目の前にあるこの一瞬を、俺はただ焼きつけるようにシャッターを切った。

砂浜に降りて、みんなで海に入った。波は騒ぐでもなく、ただ静かに囁いている。腰まで浸かった浅瀬で、みんなで英語で自己紹介をし合ったり、たわいもないことで笑い合ったりしていた。日差しは強く、じんわりと汗がにじむ。ふと、日本の夏の海を思い出した。けれど、俺が知っているどの夏とも、この海は違っていた。足元の水が、あまりに澄んでいたからだ。

水の中に手を入れても、指の先まで歪みなく見えた。砂の一粒まで数えられそうなほど透きとおっていて、思わずカメラを向けた。この一枚は、その時の驚きを、そのまま切り取ったものだ。
午後には、シュノーケルをした。写真は一枚も撮っていない。バッテリーを惜しんだのもあるが、それ以上に、ただ海を楽しんでいたかった。ファインダー越しではなく、自分の目と、自分のからだで。海の中の静けさと、光の揺らめきは、写真には残っていない。それでいいと思っている。

Mandrakeに戻り、海の向こうに、もう一隻の帆船が錨を下ろしているのが見えた。二本のマストを空に立てた、堂々とした船だ。俺たちが乗っている Mandrake とは別の船だったが、凪いだ水面に浮かぶその姿が、あんまり絵になっていたから、俺は一枚だけ、シャッターを切った。
日が落ちると、甲板の上での夜が始まる。
みんなで酒を酌み交わした。国も言葉もばらばらな連中が、身振り手振りを混ぜながら、あれこれと議論して盛り上がる。夜の甲板は肌寒く、誰もがパーカーやトレーナーを羽織っていた。潮の香りと、誰かがつけた日焼け止めの匂いと、そよ風。そのすべてが、静かな夜の一部だった。
ふと、どこからか、イルカの鳴き声が聞こえてきた。
生きたイルカの声を聞いたのは、あれが初めてだった。周りは驚くほど静かで、その静けさの底に、あの高く澄んだ声だけが響いていた。誰かが口をつぐみ、みんなでしばらく、その声に耳を澄ませていた。
船の中で眠るなんて、生まれて初めてのことだった。俺は少し緊張して、なかなか寝つけなかった。一度そっと甲板に出て、板の上に寝転がって星を眺めた。海はどこまでも静かで、船をゆっくりと、揺りかごのように揺らしていた。やがて眠気がやってきて、俺は音を立てないように船内へ戻り、横になった。

翌朝は、日の出よりもずっと早く目が覚めた。甲板に出ると、パーカーがなければ震えるほどに冷える。潮風が、しょっぱい。時計を見れば、まだ日の出の三十分も前だった。
ひとつ、心配があった。船が停泊していたのは入江の奥で、この位置からでは、日の出は島に隠れて見えないんじゃないか――そう思いながら、東の空をにらんでいた。
そこへ、船長が起きてきた。そして、何も言わずに、船を、日の出がいちばん綺麗に見える場所まで、静かに動かしてくれたのだ。
やがて、連なる島影の向こうから、陽が昇った。空はオレンジに燃え、頭上に散らばったうろこ雲を金色に染めあげ、凪いだ海の上には、一筋の光の道がまっすぐに伸びた。寒さを我慢して、震えながら待った甲斐があった。船に泊まったからこそ、俺はこの夜明けに立ち会うことができた。
人生でいちばん綺麗な海を見て、生まれて初めて、海の上で夜を明かした二日間。ウィリアムが予約してくれたあの船旅を、俺はきっと、一生忘れないだろう。
Camera: SONY NEX-5N.
